20年前、北海道の大学を卒業して、両親の反対を押し切って、地元沖縄に帰らずそのまま北海道で就職したが、その2年後に父が癌に侵され、今年が家族で過ごす最後のお正月になるからと、久しぶりにお正月を実家で過ごすことになったが、スポーツマンで筋肉隆々だった父が痩せ細り、お菓子の袋さえも自分で開けられない姿を見て、ショックを受け、普通に振舞おうと思っても、あまり笑うことができなかった。そして私が帰る日、歩くのもしんどいはずなのに、今までそんなことしなかったのに、外に出てきて手を振って見送ってくれた時に、『バイバイ。またね』と言いながら、涙が溢れて止まらなかった。あの時、ちゃんと笑ってバイバイしたかった。そして、最後にハグしておけばよかった。

千葉県・40代・女性

高校時代の大親友、恋愛も勉強も何でも相談できて、いつも頼りにしてた。私が大学で留学をする時も、海外経験のある彼女は私の背中を押しアドバイスしてくれた。そんな彼女が突然この世を去り、友人からその事を聞いた時私はまだ留学中で、お葬式にも行けずお別れができなかった。帰国後会いに行ったがどうしてあの時帰らなかったのか、最後にちゃんとお別れを言えなかった自分が情けなくて涙が溢れた。もしも願いが叶うなら、亡くなる前の彼女に会って、これまで恥ずかしくて面と向かって伝えられていなかった感謝の気持ちを伝えたい。私の青春に彩りを与えてくれた彼女に、今でも会いたくてたまらない。

東京都・30代・女性

私は、1992年1月15日の成人の日の朝に戻り、亡くなった父に会い「愛情いっぱい育ててくれてありがとう」と、笑顔で伝えたいです。成人式当日は、朝から、病気で半身が少し不自由な父がご自慢のカメラで、撮影する準備をしてくれているのに、私は挫折の日々で自己否定の毎日。そんな自分を写真に残すのに抵抗があり、早く撮ってしまって!と笑顔もみせず晴れ着もすぐに脱いで不機嫌に・・・。3年後、父は、ガンが見つかり闘病3ヶ月で亡くなりました。私は、父の最期に「天国でも私を守って~」と弱気な言葉で送ってしまったこと、父に撮ってもらう最後の写真が笑顔でなかったことが心にひっかかっています。会えたら私も母になって強くなったよと手を握りたいです。

大阪府・40代・女性

小学生の6年間の夏休みは毎年、母の実家に預けられた。何年生か定かではないが、祖父母と私の三人での海水浴。口数の少ない厳しくてこわいこわい祖父で、優しい言葉を言われた覚えはない。初めて祖母と海中で遊ぶ祖父を、これが同じ人かと小学生ながらとっても驚いた。きゃっきゃと嬉しそうにはしゃぐ祖母を大好きな祖父の姿を見た夏の日。一瞬、私がいるのを忘れているのではないか?と少し嫉妬したりもした。おにぎりが美味しかった。。ぬる暖かい麦茶。この二人が祖父母で嬉しい。と理由もなく思った夏の日。

大阪府・50代・女性

これは私の妹が生まれる前日の夜の話。寝ようした私に、母は大きなお腹を抱えながら「少しの間一緒にいられないかもしれないから」と言って私のベットに入ってきた。その時私は母が久しぶりに一緒に寝てくれることが嬉しく、母の言葉があまり頭に入っていなかった。そして次の日の朝、妹が生まれた。今思うと母はこれから生まれるであろう妹に自分が付きっきりになる事を思って、姉になる私に、甘えさせてくれたのかもしれない。その事を思いもしなかった過去の私に、母の想いを伝えたい。母へ感謝の気持ちを忘れずにいてほしい。だがこの話にはまだ続きがある。元気に産まれた妹は私の最高の誕生日プレゼントとなった。そう、妹が生まれたその日は、私の誕生日でもあったのだ。

東京都・10代・女性

10年前に父を亡くしました。私の息子が生まれた時、孫4人目にして待望の男の子だったこともあり、父は本当に喜びました。でも、息子が小学校に入った年に脳梗塞で倒れ、療養ののちに亡くなってしまいました。「A君の小学校の運動会にじいじは行きたいな」と、病床からよく言ってました。息子には発達障害があり、それがわかったのは3歳のときです。極端にできることとできないことがある、そんな凸凹な息子の子育てに泣いていた私を、父はいつも温かい目で見守ってくれていました。障害に対する知識が乏しくても、父の持つ優しさとおおらかさが私にとってどれほど救いになったかわかりません。たくさんの方の支援と理解のもと、息子は2年前に福祉就労し、毎日元気に仕事に行っています。この姿を父に見せたらどれほど喜んでくれたでしょうか?運動会はかなわなかったけど、今の息子とともに、父の生きている時に戻って、成長した息子を見せてあげたいです。生前父が好きだったコーヒーとともに。

静岡県・50代・女性

小学校3年生の夏休み、初めてこどもキャンプに参加した年のこと。お世話してくれる大学生スタッフのお兄さん(もん君)のことが好きになったけれど、勝手に恥ずかしくなってツンツンした態度しか取れず…。キャンプ最終日前夜には、「僕のことが嫌いなら、悲しいな…」と逆に落ち込まれ、距離を置かれてしまい大ショック。失意のうちにキャンプは終わりました。あの夏に戻れるなら、たくさん甘えて遊んで、楽しい思い出に変えたいです。

広島県・30代・女性

私は59歳になりました。母の年を越してしまいました。50代で亡くなった母はどんな気持ちで最後を迎えたのでしょう。結婚式には出てもらいましたが孫の顔は見せられず。母が亡くなるって考えてもいませんでした。ガン末期で亡くなることには何も感じませんが、母というものはずっとそばにあるものだと信じてました。医師に後1ヶ月も持たないと聞いた帰り道の記憶のない事。まさかまさかの連続でこの世から母が亡くなる?イヤイヤそれは無い。でも付き添いの時間は母の爪を切ったり食欲のない母にかき氷が食べたいと行った時には嬉しくて嬉しくて食堂まで買いに行って一口スプーンで食べさせて。あの時にもっともっと話せば良かった。小さい頃の思い出や母の思い出も聴きたかった。

愛媛県・50代・女性

幼い頃、よく父と出掛けていた。時には映画館。時には美術館。時には劇場へと…。多分父自身、微塵も興味がなさそうな場所に。決まって帰りはデパートで昼食。私は好きなものを食べていたが、父はいつもコーラだけで、家に帰ってから御飯を食べていた。当時はそれが普通の流れになっていたが、決して多くなかったろう小遣いで、娘の情操教育にと方々出掛け、自分は食べずとも娘には好きなものを食べさせていたのだ、と大人になった今解り、感慨深く思う。そんな不器用だった父も、去年七回忌を迎えた。もし戻れるのなら、出掛けた時の昼食は、父も好きそうなものを注文して『半分こしよう』と、言いたい。だが父は『全部、お食べ』というのかな。

東京都・40代・女性

二人目妊娠中に切迫早産になってしまい、自宅で安静にしていないといけなかったとき。あのとき、母が泊まり込んで家事をしてくれたり、上の子の身の回りのお世話をしてくれたりしていて、とても感謝していたのですが、自分が動けないイライラと、上の子がイヤイヤ期に突入していたこともあって、四六時中一緒に過ごすうちに母とぶつかり合うことも多々あって。結構ひどいことを言ってしまったのに、あやふやにしたまま月日が経ってしまい...今も変わらず、良い関係ではありますが、ちゃんと「ありがとう」と「ごめんね」を、あのときに伝えられなかったこと、今もずっと胸にひっかかっています。まだまだ母に甘えて過ごしていたなぁと。たくさんの「ありがとう」を伝えたいです。

広島県・30代・女性

私は、大好きなおばあちゃんが元気だった頃に戻りたいです。おばあちゃんは、昨年秋に突然倒れ、ガンが発覚し、今年の2月に天国へ旅立ちました。いつも私が仕事に出掛ける時、「いってらっしゃい!気をつけてねー!」と必ず言ってくれたおばあちゃん。帰宅すると「おかえりなさい!」と笑顔で言ってくれたおばあちゃん。その笑顔と声が大好きだから毎日頑張れました。なのにその「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」は突然聞けなくなりました。おばあちゃんの最後の言葉は、亡くなる3日前に苦しみながら振り絞ってくれた私の名前です。一度でいいから、おばあちゃんが元気だった頃に戻って、元気な「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」が聞きたいです。

岐阜県・30代・女性

私には、祖母がいました。とても優しく料理の上手な祖母で、私は彼女のことが大好きでした。他県に住んでいたのでなかなか会えませんでしたが、私の誕生日が近づくと、いつも必ず手作りのいちごジャムを送ってくれました。しかし、或る日突然祖母は亡くなってしまいました。その三日前に、「久々に声が聞きたいから、電話してね」の言葉を遺したまま…。ちょうど忙しい時期で、電話のことなどすっかり忘れていました。今でも、とても後悔しています。もし、あの時に戻れるのなら祖母に電話をかけて、もう一度祖母の声が聞きたいです。そして、いつもありがとう、大好きだよ、と伝えたいです。

福井県・10代・女性

私が戻りたい過去は、私が小さい頃父と和歌山へ釣りに出かけた時の事です。父との遠出はこれが初めてで私はおおはしゃぎ!魚を釣った時、触った時、父が子どものように楽しんでたのを見た時、感動でいっぱいでした。そして釣りを一通り楽しんだ後は父におねだりしてつけてもらった煮たまご付き和歌山ラーメンを食べました。すっごいおいしかったです!ここまでは普通の親子の思い出話なんですが、これは父と最後の遠出でもあったんです。あの時もっと大切に過ごしたらよかった、あの頃お父さんに「大好き」っていっぱい言ってあげたらよかったって後悔してます。また父に会える日が来るなら真っ先に「お父さん大好き」って言いたいなって思います。

奈良県・10代・女性

あの日、母は57才で逝ってしまいました。若年性アルツハイマー型痴呆と診断されました。少しずつ忘れて家族のことも、いずれは息をする事も忘れてしまう。信じることができませんでした。 その日は、日中僕が付き添って夜から姉と交代しました。車で家に帰ると父が外に出て待っていました。あー、母が逝ってしまった。すぐにそう思いました。僕が戻りたいのは、母が天国へと旅立ったあの時です。立ち会えなかったことが今でも悔しいです。一人ぼっちで逝かせてしまったことを詫びて、一言『ありがとう』と感謝の言葉伝えたい。出来るなら、手を握りしめてあげたい。その温もりを感じたい。

神奈川県・50代・男性

私が戻りたい過去は、今から14年前の小学生の頃です。 私は、おじいちゃん子でした。祖父は石頭というか亭主関白というか頑固ジジイというか…だから小さいながら、よく喧嘩してました。出掛けるのもいつも一緒で私の前をのそのそ歩き、その後ろをちょこちょこ付いて行きました。 いつも元気だった祖父でしたが、私が中学生になる前に呆気なく亡くなりました。膵臓癌でした。 あれから14年、私も26歳になりました。それでもまだ頭の中には祖父の存在がいます。もしあの時、過去に戻れるなら貴方に伝えたい。「おじいちゃん、貴方の頑固さが嫌いでした。でも今周りからは、若いくせに頑固だな!だって…おじいちゃん、ただただありがとう。」

静岡県・20代・男性

洗濯機の調子がおかしいと言い始めた母親。全自動なのにもう壊れたのかと思っていたら、壊れていたのは、母54歳の方だった。認知症との診断。同級生の母親と何ら見た目は変わりないのに、私達も何の悪いこともしてないのに、どうして私の母親だけ?もっと嫌な奴いっぱいいるのに、どうして普通の普通の母親が、なんで?神様を恨みました。小学校の頃、80m走のとき、コーナーリンクで母親が大きな声で叫んで応援してくれた声がいまも響いています。もうどうすることもできないけど、あの頃に戻って、ありがとうといいたいです。

東京都・10代・女性

私の家には、五歳年下の弟と私の小さい頃からのビデオがいっぱいあります。全部父親が撮ってくれていたものでした。だから、ビデオにほとんど父の姿はありません。父が55歳で交通事故で亡くなってひと月経った頃、中二の弟がひとりヘッドホンをして、自分が撮られたビデオを見て泣いていました。懐かしく泣いていたのかなと思って、後でそのビデオを見たら、父の声が入っていたのです。自転車になかなか乗れない弟に、撮影しながら必死でレクチャーしている声。私も泣いてしまいました。弟が生まれた夜、産婦人科の病院から自宅に父と一緒にかけっこして帰った夜。月がきれいだね。って言ってた父。こんな日がいつまでも続くと思ってたあの日。あの頃にもどってみたい。

栃木県・10代・女性

平成25年10月24日の夕食時に・・・ この日は私の52歳の誕生日を夫婦二人でお祝いをしました。過去に戻れるとしたらもう一度あの夜に戻りたい。家族のために一生懸命働いてくれた主人の手を握ってありがと~って初めて私は感謝の気持ちを伝えました。これから子供達が巣立ったらお父さんの好きな沖縄に旅行に行こうね!って・・・・ニコって微笑んで主人は応答が無かったなぁ~ 翌日、帰宅途中、第三者による交通事故で命を突然奪われました。 命の時間の寿命ってあるんだなぁ~って、私なりに納得するように努めて来ました。 いろいろあったね~おとうさん。もう一度過去に戻れるんだったら主人の声をしっかり聞き入れたい。

静岡県・50代・女性

昭和三年生まれの母は、今で言う「リケジョ」で数字に強く読書の大好きな人でした。十七才で終戦を向かえ、その後結婚してからも凛とした賢明な母でしたが、十年ほど前に認知症を発症。同じことを何度も言うようになりました。姉に介護をお願いして、私が顔を見に行くと必ず「としちゃん いつ仕事をやめるん?」と聞いてくるのです。「もうちょっとね。」とまだまだのん気にしていた去年の五月。「危篤」の連絡が!!あっという間に亡くなりました。もし十年前にもどれるなら「お母さんのそばにいるよ。」って手を握ってあげたい。この三月に仕事を辞めて、今思うのは大好きな母のこと。私には追いつくことも追いこすこともできないけれど、大切に育ててくれたことを感謝しています。ごめんね。お母さん!!もっとそばにいればよかった。ごめんなさい。

兵庫県・女性

私は、19歳になる夏、突然 母を亡くしました。当時、51才の母は、早朝新聞配達をしており、寝不足か更年期からか居眠り運転をして、電柱に激突し即死しました。悲しむ間も無く、通夜、告別式となり、出棺時「ありがとう」と言いましたが、正直 違和感が残っています。戻れるならば、亡くなる日の朝に。母に伝えたい事は「お母さんは、幸せだった?」「なんで死んじゃったのよ」「あれから私達すごく大変だったよ」「特に結婚する時。妊娠した時。出産した時。絶対居てほしかった」「お母さんが応援してくれたから、頑張って保育士になったんだよ」「花嫁姿、見てほしかった」「・・・でも今、家族3人すごく幸せだよ。お母さんから一字もらって○○と名付けたよ。」「抱っこしたり、一緒に出掛けたかった」これら全て伝えられたら、最後にもう一度「お母さん、ありがとう」と言いたいと思います。私自身、母となり子育てをする中で しっかり 悲しみと向き合うことができ、昇華できて今があります。映画がとても楽しみです。

千葉県・女性

私の戻りたい過去は35年ほど前です。当時小学生の高学年だった私は習い事の忙しさと多感な時期のプチ反抗期とで、週末に必ず電話をかけてくる祖父に素直に話をする事が出来ず冷たい態度で接していました。それでも変わらず優しく接してくれた祖父にずっと謝りたいと思っています。そして可愛がってくれたお礼と、私にも最近孫が産まれた報告がしたいです。

埼玉県・40代・女性

私が戻りたいのは小学1年生の秋。その年の冬、父が亡くなりました。35歳になって2日目でした。かれこれ18年前の事です。朝起きたら冷たくなっていました。私も、まだ2歳だった弟もよくわかっていませんでした。父が亡くなる前日、実は父に明日公園行こうなって言われて楽しみにしていたのですが、叶いませんでした。きっと死という現実は変えられないと思います。なら、せめて感謝を伝えたい。生きているうちに大好きだと、父が父で良かったと、私は来年の1月で25歳になるよと。弟も来年の1月、成人式です。全てここまで育ててくれた母のおかげでもあります。あなたが愛した女性は、優しくて面白くて怒るとかなり怖いけど自慢の母です。全てにありがとうと伝えたいです。

静岡県・20代・女性

私が戻りたい過去は、3年前の冬です。私は、ある一人の女性にずっと恋をしていました。しかし、その方とは都合上なかなか会うことができず、ようやく会えたのが3年前の冬。私はその時に自分の想いを伝えようとしましたが、自分の未熟さからできずに終わりました。次に会う時までに人としてもっと成長し、想いを伝えようと決心するも、未だに会えずにいます。今は、あの時ありったけの勇気を出して伝えていれば、と後悔の日々です。もしもあの時に戻れるなら、自分の「愛してる」という想いを言葉にして伝えたいです。

東京都・10代・男性

私が戻りたい過去は可愛がってくれていた祖父が亡くなった17歳のとある1日です。その日、私はいつものように学校へ登校する支度をしてたのですが、些細なことで祖父と喧嘩をし当時反抗期だった私は謝りもせず。祖父の顔を見た時には優しい、少しだけ寂しげな表情で、胸が少し痛みましたが急いでいたのでそのまま家を出ました。「帰宅してから謝れば良いや」祖父の愛情に胡坐をかいていました。授業中、祖父が吐血し危篤状態との一報が入り、慌てて帰宅するとそこには既に変わり果てた祖父の姿がありました。それ以来私は大切な人とは仲違いしないよう心掛けて生きています。いつどんな形で突然大切な人と会えなくなるか分からないのですから。

東京都・30代・女性

私は今高校2年生です。私が戻りたい過去は小学6年の夏休みです。理由はその年の夏休みに大好きだった祖母が亡くなってしまったからです。私は当時病院が苦手でした。その事を祖母は知っていて、亡くなる直前まで私の元へ両親からも告げられていませんでした。そしてとある夜家に1本の電話がかかってきました。それは、祖母が入院している病院からでした。私は知らされてはいなかったけれど最近祖母の家に遊びに行っていないなと何となく小学生ながら察していました。そして朝になると祖母は息を引き取りました。私があの時に病院が苦手なんて言わなければ、どうして祖母に最後今までありがとうと伝えられなかったのか私は後悔しています。過去に戻り言えなかった感謝を伝えたいです

神奈川県・10代・女性

11年前の結婚式の前撮りの日に戻りたいです。結婚が決まってすぐに私の母が余命宣告をされ、結婚式までは生きられないと言われました。せめて花嫁姿をと早めに前撮りを入れて、当日なんとか母を連れ出して花嫁姿を見せることが出来ました。ですが私は撮影や衣装替えに忙しく、母も体調が余り優れずゆっくり話すことが出来ないまま母はすぐに病院に戻りました。あの日に戻れるなら花嫁衣装を着たままで感謝の言葉を伝えたかったなと思います。『感謝してもしきれない大好きなお母さん、26年、本当にありがとうございました。まさかこんなに早く会えなくなるなんて思ってもみなかった。何度も夢に出てくるけどいつもお母さんは笑顔です。またいつでも夢に会いに来て下さい。』

栃木県・30代・女性

今年の3月に父がなくなりました。高齢でしたし、あまり苦しまないで逝きましたし、私もここ2~3年は父の好物を作り足繁く実家に顔を出し、おしゃべりをしていましたので少し親孝行が出来たと思っています。そんな父は私の息子、父にとっては可愛い孫をとても心配していました。息子は優しくいい子ですか成績は今ひとつ。そんな息子がパイロットを目指し、資格を取って就職活動をしていました。一つ内定が出たものの目指している企業ではなく、試験の真っ最中だったのでその小さな朗報を私は伝えずにいました。そしてその知らせを父は知らずに心配したまま逝ってしまいました…内定が出た日に戻って父に小さな幸せを届けたいです。

千葉県・50代・女性

高校2年の夏。高校1年のときに告白された男の子から、再び告白されて付き合い始めました。初めての恋愛でした。自分の心に起こる様々な初めての感情についていけなくなり、上手く恋愛ができず、その年の冬、別れることになりました。あの夏に戻って、もっと楽しく普通に恋愛を満喫してみたい。

鹿児島県・20代・女性

私が戻りたいのは父が居る過去です。父は私が2歳のときに亡くなってしまいました。私は幼かったので父の記憶がありません。写真で初めて顔を知り、母や祖父母が語る思い出で父の面影を追っていきました。でも、もし戻れるならば動いている父の姿が見たいです。どんな風に笑うのか、どんな風に幼い私に接してくれていたのか、とても気になります。亡くなってしまった事実は変わらないけれど、きっと私の心は様々な感情で満たされるのかなと思います。

福島県・20代・女性

今年の3月19日です。その日、祖母が亡くなりました。突然のことでした。高齢でしたが、持病もなく元気でいた祖母が、その日の夕方1人でその生涯を終えました。体が少しずつ不自由になる祖母を心配して言う言葉が、祖母にとっては気持ちのよいものではなく、帰省する度に口喧嘩をするようになっていました。最後に会ったのは、お正月。最後に話した言葉は「もっと、ちゃんと言うこと聞くんだよ」と、あまりにも可愛げのない言葉。帰り道、次会う時はもっと優しくしようと思っていました。また会える日が来ると思っていました。戻れるのならば、未来は変わらないとしても、亡くなってからでしか言えなかった、「ばあちゃんありがとう。大好きだよ」を、祖母に伝えたいです。

東京都・30代・女性

私は中学生の頃に戻りたいです。中1のときから当時の数学の先生に片想いをしています。もう21歳になろうとしているのですが未だに忘れる事ができません。大の大人が中学生なんてガキンチョを好きなるはずがないと最初から分かっていたので諦めてはいました。それでも大好きで顔を見ることさえできないくらいだったので告白はしませんでした。なので今年1月に成人式を迎える時に同窓会で自分の気持ちを整理するためにも先生に告白しようと数年間思っていたのですが先生の姿はなく、モヤモヤしたままです。だから中3の卒業式に戻ってきちんと自分の気持ちを伝えたかったなと今でも後悔しています。

東京都・20代・女性

良く父が話してくれた。「お兄ちゃんはお前にとても優しかった。自分が食べなくてもお菓子や食べ物をまさよにあげる」と言って私にくれたそうで、、、。私が3才の時。兄はわずか9年で心臓病でこの世を去った。色々な思い出は残念ながら覚えてはいないけど不思議なことに大人になってから私が凹んだり辛かったりしていると、たまに夢に出てきて笑顔でこう言う。「まさよは大丈夫、大丈夫、まだまだ頑張れるから」って。そんな優しかった兄に、今の気持ちのままもう一度会えたなら、、一緒に現代に連れてきてもう一度手術を受けさせて長生きしてほしい。たくさん笑っていてほしい。そして「ありがとう」と笑顔で言葉を交わしたい。もう一度たくさんの思い出を作る為に。

栃木県・40代・女性

小学3年生のとき父の仕事の都合で引っ越すことになり、親友にもそれを伝えた。しかし、その親友とはクラスが離れてしまい、親友はそのクラスの友達と遊ぶようになった。私はもう数ヶ月しか一緒にいれないのにこれからもずっと会えるであろう友達と遊んでるのが嫌で怒った日もあった。そして、引っ越し当日の朝がきた。親友は朝一に私の家に駆けつけて私にこう言った。「今までごめんね。引っ越しちゃうのが寂しくてそれに向き合いたくなかったんだ。」と。私は立ち尽くしてしまい、親友は帰ってしまった。それ以来その親友に会ってない。もし過去に戻れるならその引っ越しの日に戻って親友に直接謝りたい。そして、一緒にいてくれてありがとうと伝えたい。

東京都・10代・女性

私が戻りたい過去は約10年前の小学4年生なりたての頃です。私の両親は私が小学4年生に上がる少し前に離婚し、その影響で転校することになりました。そして私が会いたいのは、その当時の私自身です。 転校してから持ち前の人見知りを発動し、馴染めずにいました。転校前は男子ともたくさん話したり、遊んだりしていたのに、転校後はそれが出来なくなり、キラキラ系女子とも上手く話せなくなってしまいました。転校してから何を話したらいいのか分からなくなってしまいました。それは今でも続いています。あの頃の自分に伝えたいのは、「周りから『真面目だね』って言われてキャラ守ろうとしてると思うけど、そんなの気にするな!みんな優しいから!」と今の自分の状態を教えたいです。

埼玉県・20代・女性

私が戻りたい過去は中学3年生です 同じ塾に好きな人がいてほとんど会うことはありませんでしたが自習室でほんの少し話すだけで胸がいっぱいになる位好きでした。受験間近になり私の志望校の過去問題集をみてその人は志望校が違うにも関わらず同じ高校に願書を提出しました。結果私だけが落ちてしまい中々連絡をとることができませんでした。春になって勇気をだし連絡をとった時その人はその高校に通い同じ高校に通いたかったよと言ってくれました。私はその時どうして頑張れなかったんだと情けない気持ちになりました。結局その人とはあまり連絡をとらないまま高校も卒業しました。あの時好きだったことを伝えていれば今何か違ったのかなと今でも思い出します。

東京都・10代・女性

僕が戻りたいのは先輩たちの野球の市総体です。あの時打っていれば...あの時捕っていれば...とても後悔しています。試合が終わった後もう先輩と野球が出来るのは最後だと思うと涙が止まりませんでした。正直僕はその日余裕で勝てると思っていました。少し相手を舐めていたということもあったと思います。その結果で負けてしまったので僕はあの時油断しなければ良かったと強く思いました。僕は中学校から野球を初めて頑張って2年目で初めての市総体に出場しました。自分のせいで負けたらどうしようそんな気持ちでいっぱいでした。しかしキャプテンが緊張を和らげてくれて勝てるという気持ちになりました。でも負けてしまったので僕はこの日に戻りたいです。

兵庫県・10代・男性

2018年1月ミスダンスドリル冬季大会の本戦があり、本番で足をひねってしまい、今までたくさん厳しい練習を重ねてきた成果が発揮できなかった。部門で一位をとることはできたけどもっと上手く踊れたと思う。本番後のミーティングで後悔と、やっと終わったという安心感で涙がとまらず、感想を求められた時、覚えてないです。と言ってしまいました。本戦の日に戻り、ノーミスで演技をし、チームのみんなに今までの感謝をきちんと口で伝えたかったです。でも、今思えばいい後悔で、その大会で少し成長できたかなと思いました。

岡山県・10代・女性

脳出血で倒れ、自分の名前も私の名前も分からなくなってしまったおじいちゃんの倒れる前に戻りたい。一度子供のようになったおじいちゃんはいつもニコニコしていて、でも今何かを伝えてもちゃんと伝わってるのか分からない。過去に戻れるなら、毎日学校への送り迎えをしてくれたおじいちゃんに感謝を伝えたい。そして、思春期の意地で冷たくしてしまったことを謝りたい。聞きたいことや話したいことが、沢山ある。意地を張らずにたくさんおしゃべりがしたい。

京都府・20代・女性

私は高校の時男子バスケ部のマネージャーをしていました。一生懸命頑張っていました。でも、毎日毎日部活で、何時に終わるかもわからなくて、休みも急にたまにあったりで…私は、友達と遊びたい、彼氏とデートしたい、家でゆっくりしてたい、そんな気持ちが強くなってしまい1年で辞めてしまいました。今私は1歳と3歳の2人の子育てをしています。子育ては毎日毎日がとっても大変で…子育てをして、マネージャー楽だったなって、今の自分だったら3年間しっかりできるって。いつも高校の時思い出すたびに部活頑張ればよかったなって思います。なので、過去に戻るなら部活を辞める前に戻りたいです。3年間頑張って高校の時思い出すたびに頑張ったって思いたいです。

埼玉県・20代・女性

2012年の2月に戻りたい。この年の2月下旬に父親が病気の為急死した。単身赴任中であまり会うことが出来ないまま、急に天国に行ってしまった父にもう一度会って話したい。私は3兄妹の末っ子だ。父がいる間に3人とも20歳になることが出来なかった。今年、末っ子の私が20歳になる。今の私たち3人で、父にもう一度会って、一緒にお酒を飲みたい。

東京都・10代・女性

ちゃんとありがとうって言えないまま亡くなった母親にありがとうって言いたい。

福島県・40代・女性

22年前の6月、祖母の亡くなった、あの日に戻りたい。小学1年生の時、両親が離婚。両親二人が出ていってしまい、祖父母に育ててもらったにも関わらず、裕福ではない暮らしと親のいない環境、周りの友達とは違う暮らし…、あんなに愛情たっぷりで、接してくれたのに、祖母には甘えもあり、わがままと八つ当たりばかりだったように思います。亡くなったあの日に戻って、亡くなる前に『ありがとう』『ごめんなさい』『大好き』を言って、最後をみとりたい。もう一回、会いたい。

宮城県・40代・女性

私は祖父が亡くなる前夜に戻りたいです。父親がいない私の父代わりであり、優しくて私をとても大切に想ってくれていた祖父でした。旅立つ前夜、私の好きな天ぷらを作ってくれた祖父。仕事で天ぷらを食べれなかったし、ご馳走さまもありがとうも伝えられないまま突然お別れしてしまいました。前日に戻って一緒に天ぷら食べて美味しかったよ。ありがとうって言いたい。ご馳走さまって、沢山ありがとう言いたいです。

神奈川県・30代・女性

私が戻りたい場所は、高校の同級生で主人と結婚前によく待ち合わせした主人の実家近くにあったコーヒー屋さんです。主人と約束していない日でも2階の窓側の席に座ってストロングブレンドを飲みながら、主人が出てくるかも?と淡い期待を描いて過ごした時間 今も変わらずコーヒーが大好きな私達、昨年銀婚式を迎える事が出来ました。結婚後、隣家の銭湯の火事でそのお店は無くなリ、今は行く事が出来ず、私達の思い出深い場所の一つです

千葉県・50代・女性

別れは突然だった。阪神大震災がおきて、あなたは遠いところに引っ越した。幼馴染だからずっと一緒だと思っていたのに。一度だけ小学校の同窓会で会った。大きくなったあなたは私が知っている頃のあなたとまったく違っていた。私の胸はドキドキした。「私のこと覚えてる?」て言ったら、名前で呼んでくれたね。どうしてあの時もっと話さなかったんだろう。あの時私が勇気を出していたら、今あなたとどうなっているのかな?小学生の頃に戻ってあなたに言いたい。「好きです」と。

兵庫県・30代・女性

ぼくの戻りたい過去は、ぼくが生まれた時です。ぼくが生まれた時、母はお腹が死ぬほど痛くてたまらなかったと言っていました。でもそれ以上にぼくが生まれた瞬間は今までの母の人生の中で、最も嬉しくて、最も幸せな、最高の瞬間だったと聞きました。死ぬほど痛いのに、どうして最高に幸せなのか、ぼくは母からぼくが生まれた瞬間に戻り、母の人生史上、最も幸せだという顔を見てみたいのです。ぼくは中学生になってから母に迷惑をかけてばかりで、母の幸せそうな顔をずっと見ていないので。

滋賀県・10代・男性

高校1年の夏。3年間片思いした同じマンションの先輩。初めてのケータイでメールを打ったのは告白の呼び出し。やっと付き合えた、初めての花火大会、その日に喧嘩。彼女から『浴衣を見てほしい、屋上で花火を見よう』意地張ってメールを無視。それが初めての恋愛の終わりだった。想いやれなくてゴメン。自分勝手でゴメン。ただ、あの恋があって今の私がいます。別れの時に伝えたかった、ありがとうと。

福岡県・30代・男性

大学時代に戻りたいです。仏文科でしたが、全然身につくことがなく、モノに出来ませんでした。地方から、ずっと行きたかった東京の大学に入り、授業料と仕送りなど全部親がかりで、勉強に専念できる最高の環境だったのに、毎日ぼんやりと授業に出るくらいで、随分無駄にすることばかりでした。フランス語、今も細々と続けてますが、あの時の教室に戻って、尊敬できる先生のもと、本格的に語学極めたかったです。そうしたら今頃、子供たちに語学の楽しさを伝えられる先生になれてたかな~。

岩手県・40代・女性

6歳の時に母をガンで亡くしました。フニクリフニクラでは無いですが地元にある喫茶店によく連れて行ってもらっていたと聞いています。どんなものを一緒に食べたか、どんな話をしたか何も覚えていませんがその頃に戻ってこんなに大きくなったぞ!産んでくれてありがとうと伝えたいです。

北海道・30代・男性